因幡国絵図


伯耆国絵図



 182.2cm×152.0cm

 236.0cm×181.0cm

 因幡国、伯耆国を描いた国絵図である。成立年代の記載はないが、両絵図ともに「時代地図 明治三年民部省ニ進達セシモノ」と記されていることから、この年の状況が書き込まれた絵図と考えることができる。江戸時代には「村」であった一部の地名が「宿」となっているが、これが地名として用いられたのは明治3年(1870)〜同22年までである。また、それらの地名の近くに「古ハ○○村」と付記されている。
 岩井郡矢谷村が村名の表記を「箭溪」と変更したのが明治2年(1869)6月のことであり、その変更が「因幡国絵図」には「古ハ矢谷村」と付記されている。明治初年のこうした変更も反映されている。






 114.5cm×104.0cm

 この絵図の成立年代は不詳だが、記載内容などから見て江戸時代後期の文政年代に作られた絵図の写と推定される。






 87.5cm×93.0cm

 本絵図には明治26年10月7日付の中村真一によるメモが添付されている。米子町絵図作成の経緯や手順とともに600分の1の全図を製したことが記されている。中村は作業を終えて9月1日に鳥取に帰るが、その後に作られたのが本図である。謄写して西伯郡役所に回送したと記されている。
本図は今後米子町の絵図が必要となったときに利用できるよう保存用に作成されたもので、絵図タイトルの下に「三千分之一」と記されている。






 199.0cm×180.0cm

 明治3年(1870)3月成立。米子城内を描いた図で、家・道・田畑・畦・海・堀・井戸・蔵所・石垣・石段などが書き分けられている。図面師として日野郡黒坂村諸平が署名・押印している。






 67.0cm×91.0cm

 成立年代不詳。絵図中に、西館当主が長門守、東館当主が壱岐守と記されており、これは池田定保(文化2年〜弘化4年)と池田仲律(文化2年〜嘉永3年)と考えられる。これより本絵図のおよその成立年代を推定することができる。






 47.0cm×99.7cm

 鳥取文庫旧蔵の絵図。「當国邑美郡鳥取久松山之図」と記されている。成立年代不詳だが、羽柴秀吉が鳥取城を包囲した様子を描いた図である。鳥取城方の諸将とともに、包囲軍に加わった武将の名前がその陣所付近に記されている。






 160.0cm×136.0cm

 昭和19年3月に作成された写。「此絵図、原本ハ岡山市内山下侯爵池田家事務所ニ在リ」「公方様被成御覧之絵図也 元和五年九月六日」と記されている。岡山池田家に伝えられた元和5年の鳥取城下図を写したものであることがわかる。






 132.0cm×161.0cm

 この図の作成者は衣笠八郎兵衛重世。加須屋儀左衛門所持の大判の絵図を借用し、鳥取城下町部分のみを写したことが記されている。「年号ハ無シ、名ハ今井夫右衛門ト有リ」と記され、原本の記載をうかがうことができる。池田光仲時代にあたる寛永9年8月より延宝元年までの絵図だとの記載があるが、「寛文大図写」(倉田八幡宮蔵)の描き方と類似している。






 117.0cm×79.0cm

 成立年代不詳。鳥取城下の寺院や神社、主だった武家や施設、町人町の町名などが記載されている。






 58.0cm×146.0cm

 成立年代不詳。鳥取城の御堀から御城代屋敷・太鼓御門までを描いた図。



従公儀被仰付因伯海岸絵図


従公儀被仰付因伯海岸絵図



 56.6cm×240.4cm

 72.8cm×345.0cm

 嘉永2年(1849)12月成立。
本絵図は、嘉永2年10月の江戸幕府の命令によって作成された海岸絵図の控と推定される。在方役所がその作成を命じられ、測量等の実務は因幡分を常田七蔵・伯耆分を増井新蔵が行った。絵図作成の経緯を記した「従公義被仰付因伯海岸絵図書上之記」には、村ごとの海岸の距離や沖合いの浅深が記録されており、これは絵図中にも書き込まれている。沖合いの浅深を測るポイントは、30間目、1町目、5町目、10町目、20町目、30町目である。






 83.0cm×364.2cm

 本絵図には家・神社・寺などとともに融通会所が記載されている。また、海川・道・山林・砂浜・傍示なども書き分けられている。本図完成後に境台場などが築造され、修正が貼り紙されていた。融通会所の設置は天保6年(1835)、境台場は元治元年(1864)であることから、本絵図の成立年代を推定することができる。



島根県下因幡国全図


島根県下伯耆国全図



 47.0cm×70.0cm

 48.0cm×69.0cm

 明治14年(1881)出版された島根県時代の因幡・伯耆両国の地図。江戸時代以来の郡で記載されているが、それまでの国絵図とは趣を異にしている。
若桜・鹿野・鳥取(以上、因幡)・倉吉・境・米子(以上、伯耆)など、当該時期の市街図が記される。





 鳥取藩が領内の主要な河川について作成することを命じ、天保3年(1832)、同4年頃に成立したものと思われる。この絵図の特徴は、河川の曲っている様子をそのまま再現することができるように工夫されていることにある。巻子に仕立てるときに、河川が曲っているところは裁断して合印をつけ、糸でつなぐことによって曲りを表現できるようにしている。
 絵図の基本的な色分けは、道−赤色、川−青色、境−黄色である。この絵図には、河川の幅や河原の長さと幅が記されるとともに、河川の岸の様子(河原、石垣による護岸、樹木、岩場)、水を取り入れる堰、橋、傍示堺などが書き込まれている。河川との位置関係を考慮して沿岸の村落が記されるなど、河川の様子を忠実に描いている。
 資料タイトルは川絵図の題箋のもの。巻子タイトルは解説文の最初に記した。







 1498.4cm×29.6cm

 天保3年(1832)成立(「天保三辰年出来」)の「八東郡大川絵図」。
本絵図には、八東郡上野村付近(八頭郡八頭町)より大炊村辺(同郡若桜町)までの河川が描かれている。これは、八頭郡若桜町より発し鳥取市河原町で千代川に合流する現在の八東川の一部にあたっている。「八東郡大川絵図」とあるように、八東郡に属する部分の八東川が描かれている。






 247.9cm×29.7cm

 天保3年(1832)成立(「天保三辰年出来」)の「八東郡細見谷川絵図面」。
 本絵図には八東郡稗谷村・横地村傍示堺付近より同郡富枝村辺(いずれも八頭郡八頭町)で八東川に合流するところまでの河川が描かれる。これは現在の細見川の一部にあたっている。細見川は、扇ノ山に源を発し八東川に合流する14.2kmの河川である。
 なお、絵図には「八東郡細見谷川絵図面」と記されている。






 979.0cm×29.7cm

 天保3年(1832)成立の「八東郡私都川筋絵図面」。
 本絵図には、八東郡下峰寺村・八上郡井古村傍示付近から八東郡落岩村・明辺村傍示堺辺(いずれも八頭郡八頭町)までの河川とその川筋の様子が描かれている。これは、現在の私都川の一部にあたっている。
私都川は扇ノ山に源を発し西流して明辺川・山志谷川などを合わせながら、八頭町米岡・鳥取市河原町付近で八東川に合流する27.0kmの河川である。






 657.0cm×29.6cm

 天保4年(1833)成立(「天保四巳年出来」)の「高草郡玉川絵図」。
 本絵図には、千代川と合流する高草郡古海・菖蒲付近から同郡中村辺(いずれも鳥取市)までの河川が描かれている。これは、現在の有富川の一部にあたっている。
 有富川は、鳥取市高路の山中に源を発し同菖蒲付近で千代川に合流する11km余の河川である。





 897.8cm×29.9cm

 天保3年(1832)成立(「天保三辰年出来」)の「法美郡国府川筋絵図」。
 本絵図には百谷川(現天神川)が合流する付近より法美郡山崎村辺(鳥取市国府町)までが描かれている。国府川は現在の袋川の一部にあたっているが、江戸時代後期には上地川が合流する辺りから百谷川と合流する付近までを称していたと推定される。
 ただし、絵図の「吉方村傍示堺」「矢津村傍示堺」の河川中に「大茅川」「袋川」の表記が確認できる。






 831.7cm×29.4cm

 巻子の最初に「岩井郡蒲生谷川絵図」と記される。
本絵図には、岩井郡大田村付近から同郡蕪島村・鳥越村辺(いずれも岩美郡岩美町)までの河川が描かれている。これは、現在の蒲生川のほぼ全域にあたっているが、大田・本庄・岩本村 沿いの部分は「小田谷川絵図」の下流部として描かれている。
 現在の蒲生川は扇ノ山北麓に発し日本海に注ぐ22km余の河川。






 551.6cm×29.5cm

 本絵図には、岩井郡左近付近から同郡岩戸村(いずれも鳥取市福部町)で日本海に注ぐまでの河川が描かれている。これは、現在の塩見川と呼ばれている河川の集落に沿って流れる部分にあたっている。
 塩見川は岩美町唐川より日本海に至る12km余の河川である。






 356.3cm×29.3cm

 巻子の最初に「岩井郡陸上川絵図」と記される。
 本絵図には、岩井郡田河内村付近から同郡陸上村(いずれも岩美郡岩美町)で日本海に注ぐまでの河川が描かれている。これは、現在の陸上川の集落沿いの全線と一致する。
 陸上川は4.5kmの河川である。






 766.8cm×29.3cm

 巻子の最初に「岩井郡小田谷川絵図」と記される。
 本絵図には、岩井郡小田大谷村付近から本庄村を経て同郡岩本村(いずれも岩美郡岩美町)辺で日本海に注ぐまでの河川が描かれている。これは、現在の小田川と呼ばれている河川のほぼ全域(最上流の大坂村付近を描かない)と蒲生川の岩美町大田辺より下流域の部分にあたっている。
 この絵図には、河川沿いの施設として、岩本村の岩本御蔵所が描かれている。






 362.2cm×29.7cm

 巻子の最初に「久米郡北谷川絵図面」と記される。
 本絵図には定光寺・不入岡両村付近より久米郡森・大河内両村辺(いずれも倉吉市)までが描かれている。これは、現在の北谷川のほぼ全域と国府川の三江村付近から小鴨川に合流する付近までにあたっている。






 596.5cm×31.0cm

 巻子の最初に「河村郡竹田谷川絵図面」と記される。
 本絵図には、「上井渡ヨリ穴鴨村迄」と記載されているとおり、河村郡八屋村・下餘戸両村付近(倉吉市)より穴鴨村で河川が西谷村方面と加谷村方面(いずれも東伯郡三朝町)の二筋に 分岐するあたりまでが描かれている。この河川は、現在の天神川の一部である。
 また、本川絵図には、下流部分の支流として栗尾村までの栗尾川が描かれている。