県立図書館の所蔵している古絵図の画像を公開します。
 ごらんいただけるのはいずれもイメージ画像ですが、残されている絵図の種類や、絵図の描き方の違いなどを見ることができます。

     精細なデジタル画像は、県立図書館郷土資料室でごらんいただけます。





 これらの郡絵図は、文政年間(1818〜30)に鳥取藩が作成したものを縮写したものである。文政の原図は五間(六尺三寸竿)を一分として描かれているが、この郡絵図は、その文政本図を1/4(二十間を一分)に縮小して写したもので、縮尺1/12,000に描かれている。作製されたのは明治20年(1887)で、鳥取県庶務課地理係中村真一らが当たっている。村・道・井出(用水)・堤(ため池)・古城跡・谷などが書き込まれているが、町は空欄になっている。また、図中に凡例が記されている。  明治29年(1897)に郡制が施行されるまで、因幡国は八郡に分かれており、その郡ごとに作製されている。






 

 岩井郡は因幡東部に位置し、但馬国(兵庫県北部)境より鳥取砂丘辺までの海岸地域の郡で、南を法美郡に、西を邑美郡に接している。鳥取砂丘や浦富海岸などの島々も書き込まれ、絵図の西端には多鯰ケ池が見える。
 明治29年(1897)、法美・邑美両郡と一緒になり岩美郡となった。







 

 古くより因幡国の中心となった郡で千代川の東岸に位置し、北は岩井郡、南は八上・八東両郡で、鳥取城下に隣接している。堤(ため池)が多いのもこの郡の特徴。
 明治29年(1897)には、岩井・邑美両郡と一緒になり岩美郡となった。







 

 千代川下流の平野部に位置し、鳥取城下を含む郡で郡域は広くない。千代川東岸に位置し、東側は法美郡に通じ、川を挟んで高草郡に隣接する。鳥取城下は町であるために空白になっている。
 明治29年(1897)には、法美・岩井両郡と一緒になり岩美郡となった。







 

 千代川の支流八東川に沿った郡で、東は但馬・播磨両国(兵庫県)に接し、南は八上郡、西は智頭郡である。鳥取城下より延びる若桜往来は、八東川右岸の山すそを通り若桜へ至る。若桜を出たところで但馬道と播磨道に分岐する。
 明治29年(1897)には、八上・智頭両郡と一緒になり八頭郡となった。







 

 千代川中流域に位置する郡で、郡内で八東川が合流する。周囲を八東・智頭・法美・邑美・高草の各郡に囲まれており因幡国の中央に位置している。郡内を千代川に沿って智頭(上方)往来が走る。
 明治29年(1897)には、八東・智頭両郡と一緒になり八頭郡を形成した。八頭郡役所は本郡域に属していた賀茂村郡家に置かれた。







 

 因幡国の南に位置し、千代川とその支流に沿って集落が発達している。鳥取城下より大坂・京都へと続く上方往来が通り、用瀬や智頭は宿場町としても発達した。南は駒帰村を経て美作国(岡山県)へ通じている。
 明治29年(1897)の郡制実施にともない、八東・八上両郡と一緒になり八頭郡を形成した。







 

 因幡国に西部に位置し、伯耆国(鳥取県中西部)と接している。郡の南にある中国山地に流れを発するいくつかの川の流域に集落が発達し、谷筋と谷筋を結ぶ谷越えの道が発達している。江戸時代の初め、本郡内にある鹿野は亀井氏の城下町であった。
 明治29年(1897)の郡制実施にともない、東に隣接する高草郡と一緒になり気高郡を形成した。







 

 千代川西岸に位置する郡で、川を渡れば湖山池が広がり、千代川とその支流域に集落が発達している。千代川河口より西側の海岸には砂丘地が広がっており、江戸時代には西浜と呼ばれていた。
 明治29年(1897)には、西に隣接する気多郡と一緒になり気高郡となったが、現在は全域鳥取市となっている。



 当館に所蔵される郡絵図は、文政年間(1818〜30)に鳥取藩が作成したものを縮写したものである。文政の原図は五間(六尺三寸竿)を一分として描かれているが、この郡絵図は、その文政本図を1/4(二十間を一分)に縮小して写したもので、縮尺1/12,000に描かれている。作製されたのは明治20年(1887)で、鳥取県庶務課地理係中村真一らが当たっている。村・道・井出(用水)・堤(ため池)・古城跡・谷などが書き込まれているが、町は空欄になっている。また、図中に凡例が記されている。
 明治29年(1897)に郡制が施行されるまで、伯耆国は六郡に分かれており、その郡ごとに作製されている。







 

 河村郡は伯耆国東部に位置し因幡国に隣接している。久米郡とともに天神川とその支流の流域に発達した集落よりなっている。和田氏の知行地松崎町、藩倉の置かれた橋津、三朝村はこの郡にある。郡の北部には東郷池が広がり、南下して峠を越えれば美作国(岡山県)である。
 明治29年(1897)の郡制施行の際、久米郡・八橋郡と一緒になり東伯郡となった。







 

 天神川とその支流の流域に位置している。古くは伯耆国の中心となった郡で国府が置かれていた。江戸時代には荒尾氏の陣屋が置かれた倉吉町を含み、東伯耆の中心であった。南は美作国(岡山県)に接し、近世の湯関村(関金)は温泉場として知られていた。
 明治29年(1897)の郡制施行の際、河村郡・八橋郡と一緒になり東伯郡となった。







 

 東伯耆と西伯耆の中間、大山の裾野の東側に位置する郡で、由良川や大山山系より流れを発する加勢陀川など中小河川の流域に集落が発達している。津田氏の知行地八橋町や港町として栄えた赤碕はこの郡に属する。
 明治29年(1897)の郡制によって、河村・久米両郡とともに東伯郡となった。昭和32年(1957)に中山村が西伯郡逢坂村と合併して中山町となり、一部が西伯郡となった。







 

 東の八橋郡と西の会見郡に挟まれた郡で、大山の裾野に位置している。郡域中央部に阿弥陀川が流れ、その西側に平野部が広がっている。「伯耆富士」とも呼ばれる大山はこの郡域にあるが、周辺の村々とともに大山寺領であったために記載されていない。
 明治29年(1897)の郡制により、会見郡と一緒になって西伯郡を形成した。昭和32年(1957)、逢坂村と東伯郡中山村が合併して中山町となり、郡域が変更になった。







 

 法勝寺川流域・日野川下流域と弓ヶ浜半島とからなる郡で、西は出雲国(島根県)に接し、南は日野郡を経て美作国(岡山県)に通じている。松江城下より大坂・京都に向う出雲往来が通り、米子は鳥取藩家老荒尾氏の知行地で米子城(久米城)がそびえていたが商都として栄えた。
 明治29年(1897)には汗入郡とともに西伯郡となった。







 

 伯耆国の南西部に位置し、出雲(島根県)・美作(岡山県)・備後(広島県)三国と境を接する。出雲を発し会見郡を経た出雲往来は本郡を抜けて美作国(岡山県)へと続く。日野川とその支流域に集落が発達し、溝口・二部・黒坂・根雨は宿場としても発達した。この郡は西に隣接している奥出雲地域とともにたたら製鉄で栄えた。
 明治29年(1897)には日野郡として郡制が実施された。







 「鳥取市街実測図」に基づき鳥取城下を四分割して描いたもの。原図は鳥取藩の算術家の中村真一らによって安政5年(1858)11月に完成した。縮尺は1間を1分として描く1/600。屋敷地には大きさ(間数)が記されており、「御城下全図」より詳細である。また、それぞれの絵図に中村が記した作成の経緯が添付されている。  明治に入って収税のための資料として用いられたと推測され、明治17年(1884)鳥取県令山田信道の命令によって、県収税長山根光友が中村真一に作成の経過を記載させている。















鳥取御城下絵図1「古海御茶屋・古海郭台・今町出口迄」  行徳、聖社、千代河原に設営された東照宮(樗谿神社)祭礼の御旅所、調練場などが描かれる。







鳥取御城下絵図2「吉方・立川・稲吉・卯垣」  立川村、卯垣村、霊光院、稲荷社、天満宮と松雲寺などのある城下東部の図







鳥取御城下絵図3「東西 自御宮谷 至行徳、南北 自吉方 至御堀端」  東西両館、武家地、鹿奴(しかぬ)・智頭・若桜の三街道と町人地、東照宮と大雲院、寺院地など鳥取城下の中心部を描く。







 鳥取御城下絵図4「東西 自山屋敷 至田島、南北 自品治 至丸山」  常忍寺、景福寺、玄忠寺、湯所辺の天徳寺・養寿院などある城下西郊地域の図






 この市街図は、普請奉行岡島勘之丞の意見に基づき、藩士の受領地を明確にするために作成されたと伝えられる。実地測量は安政4年(1857)5月より翌年11月にかけて行われ、鳥取城下を7分割し1間を1分(1/600)の縮尺で描く。  添付の報告は、明治17年山田信道鳥取県令の命令によって、県収税長山根光友が中村真一に作成の経緯を記載させたもの。測量・測量器具・記載方法などの詳細が記されている。










鳥取市街実測図1「御堀端ヨリ袋川筋土手内圓山マデノ図」







鳥取市街実測図2「外吉方ヨリ川端通今町筋往来マデノ図」







鳥取市街実測図3「御圓山通ヨリ圓護寺村太閤平ル辺栗谷筋マデノ図」







鳥取市街実測図4「立川口土手筋ヨリ内吉方卯垣マデノ図」







鳥取市街実測図5「新茶屋筋往来ヨリ丹後町通小松原マデノ図」







鳥取市街実測図6「外市行徳筋往来ヨリ新茶屋筋往来マデノ図」







鳥取市街実測図7「今町筋往来ヨリ外市行徳筋往来マデノ図」







 この絵図は、文政年間(1818〜30)に作製された因幡・伯耆両国の郡図をもとに、それらを連続させて一枚に仕立てたもの。百五十間を曲尺(かねじゃく)一分として描かれており1/90,000の縮尺。明治22年(1889)3月20日の年紀が記される。  明治維新以来20年以上経過しているが、新たな鳥取県全図作成までのつなぎと材料提供の意図をもって作られた。絵図には、道・河川・集落名・集落配置・郡境・国境などが記載されている。